大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成8年(オ)2263号 判決

東京都港区高輪二丁目一一番一号

上告人

旧名称 宗教法人泉岳寺

泉岳寺

右代表者代表役員

小坂機融

右訴訟代理人弁護士

田倉整

酒井正之

東京都新宿区西新宿二丁目八番一号

被上告人

東京都

右代表者交通局長

加藤紘一

右当事者間の東京高等裁判所平成六年(ネ)第四八四八号地下鉄駅名使用禁止請求事件について、同裁判所が平成八年七月二四日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人田倉整、同酒井正之の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決の法令違背をいうものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小野幹雄 裁判官 高橋久子 裁判官 遠藤光男 裁判官 井嶋一友 裁判官 藤井正雄)

(平成八年(オ)第二二六三号 上告人 泉岳寺)

上告代理人田倉整、同酒井正之の上告理由

第一 上告理由第一点

原判決には憲法第二九条に反する判断がなされており、原判決は破棄されるべきである。

原判決および第一審判決は憲法に反する判断を示している。

改めて申し述べるまでもなく、憲法第二九条は次の通り規定する。

〈1〉 財産権は、これを侵してはならない。

〈2〉 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。

〈3〉 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。

原判決および第一審判決も、上告人の寺名を氏名権に準ずるものとして保護すべきであることについては肯定している。

氏名権は、人格権及び財産権の二面性を具有しており、本件のような著名な名称については、他人がこれを経済活動に利用することをコントロールする財産権もある(甲五)。この財産権についても排他性があり、差止請求権を認めるのが判例である(「顧客吸引力のもつ経済的な利益ないし価値を排他的に支配する財産的権利」などとされている-東京高等裁判所平成三年九月二六日判決)。

また、原判決は、第三者がマンション、店舗等の営利事業に上告人の名称を使用した場合、不正競争防止法等により差止め及び損害賠償等が請求できることを判示し、対私人の関係では、上告人の財産権を認めている。

他方、原判決は、被上告人が「公共のために」使用することについては、上告人が差止請求権を行使できないとの結論を出している。

即ち、上告人が、保有する財産権(名称の排他利用権)を公共のために用いることを是認し、権利行使を排斥したのである。しかし、ここに至るまで、上告人と被上告人との間で個別面談の事実なく、従って、個別に補償の話も全くなされていない。

全く一方的な有無を言わせない取上げ又は召上げである。財産権の奪い上げについては、憲法上正当な補償が保証されているのにも拘わらず、行政は事前にも事後にも何ら補償の話もしていない。

原判決は、かかる補償のない財産権の利用をそのまま無条件に許容した。まさしく憲法に反する判断である。

第二 上告理由第二点

原判決には、不正競争防止法の法律解釈に誤りがあり、この誤りは判決の結論に影響を及ぼすことは明らかであり、原判決は破棄されるべきである。

平成五年に不正競争防止法が改定されたが、その主旨についても判断の誤りがある。

不正競争行為は、不正競争防止法が法定した事項についてのみ成立するものではなく、社会常識からみて、これは余りにおかしいという事項について、もともと違法視されるべきものを明文化しただけであり、その基本原理は民法第一条に定められている通りである。

原判決は、端的には、不正競争防止法第二条一項一号に規定の「混同の要件」について解釈を誤った。

一 第一に、原判決は、混同要件該当性を判断するに当たり、地下鉄営業についてだけ混同の可能性を取り上げるという点で、誤っている。

本件は、駅名使用により、被上告人の事業が上告人のそれと混同を生じるか否かが問題である。

被上告人の事業は、鉄道事業に限定されない。上告人が問題としたのも駅名使用行為であって、都営地下鉄事業それ自体を問題にしているものではない。

それゆえ、都営地下鉄事業を上告人が行う可能性の有無を最大の理由とする原判決は、本件の争点を的確に判断したことにならない。

駅名として上告人の名称を使用することに起因する混同可能性については、駅名を使用することによる、被上告人による種々の事業活動の可能性等をも視野に入れて検討しなければならない。

例えば、駅ビルでの飲食事業、販売事業、観光事業、ホテル事業、会議場事業、催事事業、広告事業、倉庫業、教育事業、賃貸業など種々のものが含まれるのであり、これらの幾つかは上告人の行う可能性ある関連事業とオーバーラップするものである。

よって、最初から被上告人の事業を「都営地下鉄事業」と限定して、その上で、「都営地下鉄事業」ゆえ上告人が行うことがあり得ないとすることを理由に混同の可能性を否定したことは明白な誤りである。

二 原判決は、御庁の判決を引用して、営業の混同とは、営業上緊密な関係にある若しくは何らかの経済的、組織的関連があると誤認させるもの(広義の混同)を含むと言いながら、何らかの明示又は黙示の許可、許諾があったものと誤信する可能性では不足であるとする。

その理由として、「駅名の使用」許諾の誤認のおそれがあることが、直ちに、上告人と被上告人との営業の混同をもたらすものと解されないからとする。

しかし、御庁の判例は、このように狭いものではない。

1 御庁の昭和五八年の判決は、「同一営業主体と誤信させる行為のみならず、両者間にいわゆる親会社、子会社の関係や系列関係などの密接な営業上の関係が存するものと誤信させる行為をも包含する」としている。

また昭和五九年の判決は、「グループに属する関係が存するものと誤信させる行為をも包含し・・・両者間に競争関係があることを要しない」としている。

いずれも、「など」とか「包含する」という表現から明らかなように、混同が当該事例に限定されない趣旨を明確にしている。

御庁調査官による昭和五八年判決の判例解説も、判決の趣旨を、「営業上何らかの密接な関係があるのではないかと誤信する広義の混同まで含まれることを明らかにしたものである。」とし、「著名表示の顧客吸引力に便乗しようとする新しいタイプの不正競争行為に対処するための・・・フリーライド理論、ダイリューション理論を「混同」概念の拡大解釈によって実質的に導入したもの」と解説している。そして、これが学説・下級審裁判例によって採用されていた解釈の是認であるとしている。

昭和五九年判決の判例解説も、ダイリューション理論、フリーライド理論を踏まえて、「緊密な営業上の関係があると誤信する行為も「混同」概念に含ませることが法の趣旨に合致することを解説し、この広義の混同の概念によれば、「著名表示の使用行為を混同行為としてとらえることができる」ともしている。

このように、御庁の判示自体の中にも、「広義の混同」解釈の更なる拡大性が、「など」や「包含」の表現によって示唆されているし、調査官もそのことを明言している。

特に、著名表示の場合には、使用行為自体で、混同に該当すると判断するのが不正競争防止法の精神(特にその第二条一項二号の立法経過と趣旨)や平成五年改正前の不正競争防止法に関する判例の蓄積に合致する。

2 更に、被上告人による泉岳寺駅名称の使用は、上告人が何らかの明示又は黙示の許可、許諾をしたものと誤信させる可能性がある。

現に「泉岳寺」の名称を使用し、控訴人から使用中止を求められた多くの者が、「泉岳寺駅」が認められていることを理由に、自らも「泉岳寺」の使用が可能であると主張しているからである。

不正競争防止法が禁止しようとしているダイリューション・フリーライド等の不正競争行為を助長するような使用も不正競争防止法に言う「混同」に該当する。

三 原判決は、駅の所在地を上告人の所在地とする混同は、営業の混同ということはできないという。

営業の混同ということを広義に捉える以上、原判決は、その否定の理由を示し得ない。

営業の混同を狭く捉えたにしても、駅名使用に係る事業を「都営地下鉄事業」に限定するのではなく、駅名使用による業務の可能性を常識的に判断するならば、混同があり得ることは明白である。

即ち、駅の活動・機能としては、乗客の乗降地の特定の他、待ち合わせ場所の機能、ショッピングセンター的機能などもあり、窮極的には場所を示す機能目的が主である。

このこと自体は原判決も一審判決も、駅名は、場所的表示がその本来的機能であると認めている。

「混同要件」もかかる場所特定機能という点も考慮して決定すべきであり、この観点からすると現実に混同は発生しており、将来の混同の恐れも明白である。

それゆえ、原判決のように混同の可能性が全くないということは言えない。

しかも、現実に、間違い電話、荷物等の誤配、待ち合わせ場所等の混乱、訪問先の混乱等があったのであるから、不正競争防止法に言う混同の要件は充足されている。

第三 上告理由第三点

原判決の判断内容には駅名変更に伴う支出額および対応措置に関し経験則に反するところがあり、その判断の誤りは原判決の結論に、影響を及ぼすので、破棄されるべきである。

駅名変更に高額の金額の支出を必要とする、との点についても大変な誤解である。

これから鉄道網が拡がって行くに従い、新しい駅名表示は必ず必要になって来る。また、他の駅での駅名変更もある(甲九)。料金の変更は頻繁に行なわれる。そうした機会に手直しをすれば、本件の手直しのためだけの支出に比べればゼロに近い。このことは常識的にみても当然分かることである。

単に、本件の手直しだけのための必要経費だけを算出して、是正に費用がかかることを論じるのは経験則違背の判断である。

もとより、本件においては、既に被上告人の行なった違法行為に対する是正・被害拡大阻止のための費用を論じているのであるから、これが高額になるということを理由に救済を否定すること自体が本末転倒である。

第四 上告理由第四点

原判決には、官と民との関係についての社会常識に反する判断が示されており、経験則違反として破棄されるべきである。

官業は民間企業の範となる企業活動をすべきであって、民間企業ができないことを押し通して良い、という理論は社会常識から見ても成立し得ない。

原判決および第一審判決が、社会常識に反する結果を是認する見解を示したのは甚だ遺憾である。

一 本件では過去の誤った行政措置について、その是正を求めるための行動に出るのが遅れたことを理由として、いわば既成事実を高く評価して、既成事実を固定しようとする判断を示した。

事実は何かと躊躇している間に年月が経過してしまい、いささかの時期遅れとなったことは否めないが、官の側には民に対して十分な意を尽くす必要なしとの風潮があったし、民の側には「泣く子と地頭には勝てない」という意識が植えつけられていた、ということを勘案すれば、本訴提起が遅きに失した、ということは法律的な主張として取り上げるべきではない。

むしろ官業の側で自ら是正の措置をとるべき案件である。現に近時の鉄道の駅名には、例えば「東大前」というように、著名な名称をそのままではまく、正確な所在地を駅名とすることが自然のなりゆきとなっている。

こういう機会を捉えて自らも是正の措置をとるべきが官業のあるべき姿であり、訴をもって是正を求められるが如きは、自ら恥ずべき事態である。これを臆面もなく、過去の措置を正当化する主張をなすのみで是正に向けての措置をとることを恥とするかの如き姿勢をとるのは誤りである。

官僚のおごりの一面を見せられた感がする。

二 行政は行政の一環として、公的事業を行なおうとする。これをバックアップし、あるいは行き過ぎを是正するのは立法である。政治家が立法によって行政を引っ張り、行政の誤りを正す。

そして、司法は、この立法と行政の誤りを是正するためにある。相互の抑制作用によって初めて、近代社会は成立する。

行政の行き過ぎを抑制することなく、これを是認することは司法の義務の放棄である。

このことは、特に本件の被上告人の駅名使用行為が、私人の不正競争行為を誘発・助長し、不正競争防止法によって保護しようとする著名名称の使用に係る法益を奪うものゆえに、一層重大である。

原判決は、被上告人が「泉岳寺」の名称を使用しても、上告人の名称の著名性が希釈化されるおそれは少ないとする。

しかし、護国寺、妙蓮寺、弘明寺、祐天寺周辺において、これら寺名を使用した営業が多いという証拠(甲一二)を看過している。

私人の不正競争行為を排除しようとする際に、常に登場する抗弁として、「行政が使用しているではないか」が繰り返されることを放置することは司法としても慎むべきであろう。

三 特に、本件は、被上告人が「泉岳寺」を駅名にしようとした発端が、「泉岳寺」を地域名と誤解し、かつ駅の所在地が泉岳寺の所在地とは異なるのに「泉岳寺」と命名したという、社会の一般認識からは逸脱した行政の誤解が出発になっている。

即ち、原判決も認めるように、駅名としての「泉岳寺」の採用は、「泉岳寺」の存在する地域をも概括的に示すものとの行政側の認識に出発したことが推察されている。

原判決は、運輸省通達を始めとする行政が使用した「泉岳寺」の用語について、「控訴人自体やその境内を指すものとして用いられるものではなく、控訴人の寺院名によって表象される同寺院を含む周辺地域ないし場所を示すものとして用いられているもの、すなわち、いずれも本件地域ないし場所を示す名称として用いられているものと解される。」と判示する。

この判断が行政の使用意図に言及しているものであれば、まさにその用法自体が一般社会の客観的な認識とは異なり誤っていたことを糾弾すべきであったし、一般社会の理解として言及しているのであれば、証拠に基づかない認定である。

問題は、行政側がどのように用いたかという主観の問題ではなく、客観的事実として一般社会がどう見ていたかである。

泉岳寺の伽藍や境内は泉岳寺の所在地(港区高輪二丁目一一番一号)であるが、これが存在する地域が概括的に泉岳寺とされた事実はないしその証拠も提出されていない。認識されていたとしても、「泉岳寺周辺」とか「泉岳寺近辺」といったことであって、地名・地域名としては、古くからの歌にも「ここは高輪泉岳寺」とあるように、高輪である。

更に、被上告人の駅の所在地(港区高輪二丁目一六番三四号)が、場所としても、地域としても、「泉岳寺」と呼ばれていた事実は全くない。

適切に現在の駅の所在地を表現するとすれば、「高輪」というべきであろうし、仮に「泉岳寺」を使用したいのであれば、「泉岳寺前」とかの正確な表現なら許容の範囲と判断されてもやむを得ないかも知れない(甲一四)。

こうした二重の、行政だけの認識による錯誤に基づいた駅名選択だったのであるが、原判決は何らの具体的な証拠なく、また寧ろ反対の証拠があるにも拘らず、この行政の認識が正当であるかのような事実誤認をしており、行政の判断を正当化した。

いずれにしても、ここにも証拠法則(自由心証主義)を逸脱した違法があり、判決の結論に影響を及ぼしているから、この点からも原判決は破棄されるべきである。

以上

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